しかし、1978年の後半から79年にかけて、再び第二次オイル・ショックがおこり、日本の経済はもう一度混乱します。
その混乱のいちばん大きな原因が、日本の経常収支が再び赤字に転落することでした。
そこで輸出を回復させ、輸入を節約する政策がより一層強力に展開されました。
輸出の点では、エネルギーや原材料に依存しない技術集約型の商品がその中心になり、従来の鉄鋼や造船に代わってテレビ、ビデオ、コンピュータなどの情報関連電気機器が主力商品となりました。
他方、少しでも貿易赤字を縮小するため、省エネルギー、省資源の技術開発と節約運動が強力に展開されました。
それまでGNPの伸びに対するエネルギー消費弾性値は2近くであったのですが、たちまちのうちに1を切るようになりました。
1987年には0.5程度になりました。
ここでいう弾性値は、GNPの伸びに対するエネルギi消費の伸びの割合のことで、1より大きければエネルギー消費が大きく、弾力的であり、1より小さければ節約が進行していることを意味します。
こうして貿易赤字を解消しました。
日本の経常収支が本格的に黒字になったのは、じつはそれほど以前からではありません。
物価は狂乱的に高騰しました。
賃金も追随して急騰しました。
消費者物価は1973年には11.7%、1974年には24.5%も上昇し、賃金も2ケタ上昇を記録しました。
そこでまた、日本の経済はこのナイル・ショックに対応すべくいろいろな調整と対応を行ないます。
具体的には変動相場制への移行と石油価格の高騰によって赤字に転落した経常収支を均衡化させ、さらに黒字をいくぶんでもつくることに政策の重点が移るようになりました。
物価・賃金の抑制、省エネルギー・省原料の技術開発、高付加価値品の輸出の促進などによって、そのことがある程度成功するのが、1977~78年にかけてです。
最も大きなオイル・ショックを受けた日本経済が、じつは他の国よりいち早く回復をしたことはひとつの驚異でした。
インフレはいち早く高進しましたが、鎮静も最も早く見事でした。
このときのインフレ抑制がその後の日本経済の強さ(とくに国際的にみて)の基礎になったといえるでしょう。
この点の評価は日本人のあいだでも十分でないようです。
もっとも、イソフレ抑制策はいつまでも国民から歓迎されるようなものではありませんし、物価を抑えて当然という感じをもっていますが、これは大変な仕事なのです。
しかし、固定平価制の下での単なる為替の調整だけではなかなか基本的な状況は変わらず、1973年の春には固定平価制から全面的な変動相場制へと移行しました。
日本経済にとって、この固定平価制の崩壊は、自らその原因のひとつをつくり出したという一面もありますが、同時に、それにより、あとになって、日本の経済運営がたいへん大きな影響と衝撃を受ける一因にもなりました。
その変動相場制への移行があったあと、同じ年の秋に第四次中東戦争が勃発。
それが引き金となって第一次"オイル・ショック"がおこります。
それまで1バーレル当たり2ドル程度であった石油価格が、突如として4倍に高騰する状態が生じました。
それまで長いあいだ、交易条件の悪化に苦しんでいた産油国が、それを改善しようと石油価格を引き上げた心情は理解できます。
しかし、急激で大幅な引き上げは、石油消費国にとってはショックでした。
日本の経済は、そのときまでには文字どおり石油のうえに成り立つような経済構造・産業構造を確立していました。
輸出の担い手であった鉄鋼をはじめとする重化学工業のエネルギー源は主として石油であったし、国民の日常生活のエネルギー源も石油でした。
いわば"油上の楼閣"のように、第一次オイル・ショックで日本の産業は大きく揺れることになり、同時に国民生活もそれを反映して非常に不安な状況におちいることになりました。
いまでは昔語りになっている、街中から突如日用品が消えてしまうというトイレットペーパー騒動なども、そのときにおこったのです。
70年代に入ってからの日本経済にとっての環境変化は、世界的にみれば、パックス・アメリカーナの時代がだんだん薄れていくことと符合しています。
第二次大戦直後はアメリカの経済力が圧倒的でした。
そのアメリカがマーシャル・プランなどを通じてヨーロッパの復興を手助け、また、日本に対してもいろいろな経済的支援を行ないました。
こうして欧州の経済が、ついで日本の経済がめざましく成長した結果が、アメリカ経済の櫓対的な地位の後退となりました。
世界のGNPの半分以上を占めていたアメリカは、いまではその比率は4分の1程度にまで低下しました。
そして、経済力を象徴する通貨としてのドルの地位もまた揺らぐことになりました。
基軸通貨としてのドルの力が相対的に弱まり、やがて、1945~60年代を通じて確立していた固定平価制が崩れるようになってきたのです。
つまり米・欧・日など諸国間の生産性格差が縮まり、逆に国際競争力が一部で逆転してくるにしたがい、そうした変化が固定平価制ではうまく通貨に反映しなくなったということです。
1971年にはワシントンでスミソニアン会議が行なわれ、各国の固定平価の調整が行なわれました。
日本についていえば、それまでの1ドル=360円という関係が、1ドル=308円に変更されました。
経済構造の点でいえば、まず、直接的には石油の状況の変化に対応して省エネルギーが進められる。
あるいは代替エネルギの開発がされることであり、その過程で高付加価値型的な産業のウエートが高まり、他面で知識集約的な産業を中心に、サ壱ス化.ソフト化が徐々に進行していくことであります。
また、この間に、1960年代への反省として、公害防止、あるいは消費者保護への対応が進み、国民生活の質に対する関心が高まりました。
この1970年代にはじまった「調整期」を経て、80年代の半ぽころから日本経済は「新しい時代」に入ろうとしていますが、当面、私たちが最も関心をもつべきことは、対外収支の問題です。
やや極端にいえば、国際化が進む日本経済として最も優先的に取り組まなければならない問題は、世界経済にいま、いろいろな不均衡のあるなかで、国際収支の不均衡を是正することです。
そして、国内的には、これまでは経済成長の成果が必ずしも日本国民の生活の質を高めることになってこなかったという反省のうえに立って、これから対外均衡の改善と国民生活の質の向上を図るという、2つの目標が追求されなければなりません。
幸いこの2つは、いまの日本経済にとっては相矛盾する命題でなく、両立する命題です。
第二次大戦が終わってから、日本の経済はほとんど駆け足で復興から成長を遂げてきたのですが、1970年代に入って、また新しい試練に逢着します。
それは具体的にいえぽ、いずれも国際的な出来事です。
ひとつは通貨制度の改革(固定相場制から変動相場制ヘ)であり、いまひとつはエネルギー問題、すなわち2度にわたるオイル・ショックの発生であります。
この2つの大きな出来事によってゆれ動く経済は、1980年代の半ばすぎまで続いています。
この時代を多くの人は「調整の時代」とか「対応の時代」と呼んでいます。
それでは、「調整」とか「対応」というのは、どのような課題をさすのでしょうか。
それは、新しい通貨制度にいかに慣れていくか、また石油依存の経済体質をいかに変えていくかということで、それまでの日本経済の運用のやり方を改め、経済構造を調整しなければならなくなったということです。
成長率は、それまでの年平均10%という状況から一変し、3~5%程度の成長率に鈍化しています。
それは新しい時代に適応するための調整期間であるという特色を象徴していました。
この調整の時代の余韻は、1980年代の後半から90年代の前半まで続くでしょうが、これから新しい時代が開けるその基礎固めをなすときでもあります。
ここでの特徴は、産業構造が徐々に変わり、経済体制も従来より、より国際的に開放的になっていくということです。